星矢関連二次創作サイト「アクマイザー」のMEMO&御礼用ブログ
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シャロームという言葉は、「平和」であり「こんにちは」であり「さようなら」でもあるそうですね。イスラエル民謡のシャロームの日本語詞は、井田誠一氏版では「どこかでまたいつか 会えるさ」「また会おう、どこかで」となっており、別れの歌なんですけれども、NDでの氷河と紫龍のやりとりが頭に浮かびました。
春麗との平和な(一般人としての)生活を選んだ紫龍に対して、氷河が『もう会うこともあるまい』と黙って去って行ったあのシーンです。紫龍は友情のために決意を覆しましたけれども、聖闘士がもしも戦う道を捨てたのなら、仲間とはもう会うことはないんですよね。きっちり道が分かれてしまう。
それに対し、聖闘士同士であれば、たとえ死という別れがあっても女神の名の下にいつかまた会えるんですよね。シオンと童虎しかり、嘆きの壁の前で集った黄金聖闘士たちしかり。彼らは「また会おう、どこかで」と言えるのです。会える場所は戦場か涅槃ではありますが(>ω<;)

なので二次創作で聖戦後設定を考えたとき、もしサガが聖闘士であることを本当にやめて市井に下ってしまったら、聖域の教皇となるアイオロスとは二度と会えなくなるのかな、お別れのときが本当のさよならになってしまうのかな…などと考えてしまいもだもだします。
これがカノンとサガの場合だと、兄弟という絆がまだあるので、ちょっと会える可能性があるのだろうか。カノンが双子座になるのか海龍になるのかでまた変わりますが。

俗人となったサガ側からは神域である聖域や海界に行くことが出来ないけれども、数年に一度カノンがふらりと現れて、またふらりと去っていく。それは街中ですれ違うだけであったり、家の前に土産が置いてあるだけだったりで、まともな逢瀬じゃないんですけど、そういう状況ならまだ、サガはカノンに想いを馳せつつ「どこかでまたいつか会おう」と呟けると思うんです。

しかして、サガが小宇宙剥奪のうえ記憶も封じられて聖域から追放され、一般人として暮らすうちに家族もできて、贅沢ではないけれども幸せな生活を送るようになったとき、それって幸せだけど凄い罰でもあるんだよなあ、聖闘士である自分と仲間と弟を全部失ってるんだよなあ、そして罰であることすらサガは気づかないんだろうなあ…って考えると、聖域の針の筵のなかで罪を償うのとどちらが本当の幸せなのだろうと考えます。
私は星矢vサガも大好きなので、彼らバージョンも妄想するんですけど、たとえば記憶のないサガのところに星矢がやってきて彼の生活を垣間見て「よかったな」と行って去っていくとします。その時にサガが記憶がないながら星矢に惹かれて「また会えるだろうか」って聞いても、星矢は笑って「これでお別れだ」って返すわけですよ。
星矢が去って行ったあと涙が零れ落ちても、その理由がわからないサガ。
何が罰で何が幸せなのかは結局はサガ次第ですね(>ω<)

あと、お別れをテーマに双子の二次妄想をした場合、やはりスニオン岬とサガの自害の二点は欠かせないですよね。拙宅では毎回サガに置いて行かれるカノンに凄いトラウマがある設定です。聖戦後、サガは全力でそのトラウマを受け止めてあげて欲しいココロ。カノンが充分癒されて、再び起こる神々との戦いの際に、「いつかまた会おう」と自分からサガへ告げて戦場へ向かえるくらいには!

今日もぱちぱち有難うございます(>▽<)毎日の潤いです!
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